2016年03月12日

観世音寺から大宰府政庁跡、水城跡

雅な竈門神社を後にして
次に向かったのは観世音寺。(かんぜおんじ)
先生のメールに確か記されてあったはずと
雨の中、意気揚々と
大通りから入った駐車場に止めてみたが
まるで人の気配がない。
目の前にあるのは
遥かに予想を超えた古寺であった。

IMG_6166.JPG

『続日本記』によると、
観世音寺は、天智天皇が
母斉明天皇の追悼のため
発願したという。
創建時は諸説あって発願から
約80年も経た746年とされている。

調べると、
現在残るこの建物は
すべて近世の再建だという。
それにしても古い・・。

藩主黒田家によって復興され、
どうにか古寺としての面目を
保ってきたとかで
何とも涙ぐましい歴史を
背負っている雰囲気が伝わる。

IMG_6160.JPG

日本最古と言われる
梵鐘も残っている。


この寺には、重文の仏像をはじめ
そのほかも貴重な仏像が多く
宝蔵に安置されていたらしい。
時間がなかったが、後で
見ておきたかったと悔やまれた。

IMG_6168.JPG

黒田家(脳内では岡田准一さん♪)が
頑張って存続維持に努めてきたのね〜と
この古寺を適当に解釈して後にした。
真ん中にどんと置かれた
大きな灯籠?も何とも印象的だった。

IMG_6157.JPG

後で、『法隆寺は移築された』いう
米田良三氏の本を読んで
この観世音寺が関係しているかもと
いう説を知って驚いた。
歴史ってわからないことだらけ。
一見地味なこの観世音寺周辺を
目に焼き付けたことは収穫だった。
7世紀頃、何かがあったのだ。この場所で。

とまあ、この観世音寺の謎は
後でわかったことなので
これ以上のコメントは省略。

大雨の中、次に向かった場所は
大宰府政庁跡。
7世紀後半から奈良、平安にかけて、
九州を治め、
外交、軍事、経済を担った役所が
置かれた場所である。

IMG_6180.JPG

広大な草原のように見えるが
しっかりと建物の礎石が
往時を偲ばせる。

IMG_6187.JPG

基本的に私は、今は何も残っていない跡が
夢の跡っぽくて好きである。
鳥取旅行で行った大伴家持が国守だった
因幡政庁跡の何倍も大きい。
当たり前か。

IMG_6186.JPG

ここには家持の父上の旅人様がいて
筑紫歌壇という和歌サークルを作っていた。
(表現が大雑把ですみません。)
あの貧窮問答歌の山上憶良もいたんだよ。

皆、都に帰りたいとか
梅が咲いたよとか
酒がうまいとか
子どもは宝とか
現代にも通じるいろいろなテーマで
歌宴を催していた。

周囲は山に囲まれて、
都人からすれば
野蛮な辺境地帯に
見えたかもしれない。
この地で詠まれた歌が
万葉集にたくさん残されている。

ツレは、大きな石碑を見て
駐車場で雨宿りをしていたが、
私は一人で周囲をぐるりと歩いてみた。
すると旅人の歌碑を見つけた。

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妻や皇女の死を受けた
一等悲しい歌だった。

世の中は 空(むな)しきものと
知る時し いよよますますかなしけり

世の中のありとあらゆるものは
すべて仮の存在であって空しい(伊藤博訳)

この政庁跡の裏道の寂しい場所で、
この歌に出会うとはね。
本当にしみじみと声に出して
読んでしまったら、
ものすごく心細くなった。

旅人にはお酒大好きのユーモラスな歌も
たくさんあるけど、どこか哀しい。
仏教感の強いこの普遍的なテーマの歌を
ここで歌碑にしたんだろうか。
因みに歌で「空し」という言葉を使ったのは
旅人が初めてだそうです。

さて誰も居ない政庁跡を
往時を偲び
思いきり散策して、
最後は水城跡に行ってみることにした。

IMG_6204.JPG

水城跡とは、
664年、唐新羅の侵攻に備えて築かれた
防衛施設(人工の土塁)である。
全長1、2kmに及ぶ。
白村江の戦いで大敗した日本は
博多湾から敵が大宰府に攻め込むことを
想定したのだ。実際は使われなかったそう。

IMG_6209.JPG

雨も小降りになり、
一人で国分の丘に登って
展望台から臨んでみたが、
イメージが今一つ、
つかめず降りてきた。
ガイドさんが欲しかったなあ。

しかし下で待っていたツレが、
ここで旅人と馴れ親しんでいたいう
児島という遊行女郎(うかれめ)の歌碑を見つけた。

IMG_6216.JPG

遊行女郎とは、
官人たちの宴席で歌や踊りを見せる
娘子だ。

730年冬12月、大宰帥旅人は大納言にすすみ
大宰府を離れた。この水城で見送る官人たちに交って
児島もいたのである。

倭道(やまとみち)は 雲降りたり 然れども
わが振る袖を無礼(なめし)と思ふな

偉い人でなく、普通の人であったなら
お別れに袖を振って惜しむのだが
我慢していると詠んだ後に、
児島はやはり、
無礼と思わないでと袖を振るからと、
本心をほとばらせる。

それに対して旅人、

倭道の吉備の児島を過ぎて行けば
筑紫の児島 思ほえるかも
ますらをの 思へるわれや
水くきの水城のうえに なみだ拭はむ

吉備国の児島を通ったならば、きっと同じ名の
筑紫の児島を思い出すだろう。
涙など流さぬ立派な男と思っている私だが
別れに際してここ水城で、涙を落とすだろう・・・

これが二人の永遠の別れとなった。
旅人は翌年66歳で亡くなった。

生のむなしさも喜びもやりきれなさも
率直に歌にする旅人が
そばに居るようだった。
こんな胸が引き裂かれるような
せつない別れの場に
最後に立てたことに感動。

歌碑を見つけてくれたツレに感謝した。
人生のつれ合いは大切。(*^^*)

今回の北部九州旅行、
皆さまのおかげで実り多く
無事に完了いたしました。
ありがとありがとうの旅でした。(^O^)/









posted by フラニー at 17:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅・福岡山口 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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